アタシハ ハルガ ダイキライ。サクラノ ハナガ ダイキライ。

実は、今日は父の3回目の命日。いわゆる3回忌である。
ただ、アタシらはアタシらなりの命日と供養の仕方をみんなで決めて、ことさら法要を営むことはない。
それも、人の死は流れの一つ、父のことを思い出すのが供養、と思ってるからだ。
だから、アタシなりにちょっとあの日のことを思いだしたい。




あの日、父は1週間の救急救命センターぐらしの末、かなりあっけなく逝ってしまった。
もちろん、ちょっと危ないと思う、との医師からの説明で義母もアタシも妹も孫たちも集まってはいたが、臨終に立ち会えたのは2〜3人だけだった。
階下の家族控室に呼びに行った人も間に合わないくらい、その死はあっけなく「ちょっちょっと待って!」と叔母は叫んだほどだ。


一番ドライなすぐ下の妹は父が倒れて救急救命センターに運び込まれた時、医師の説明を聞き、一番客観的に「つまり、もう意識は戻らない、脳死と理解していいわけですね。あとは心臓がいつまでもつか、ということですか?」と涙ひとつ流さずに聞き、父に向って、「お父さん、聞こえてないと思うけど、あなたは体は生きてるけど、脳は死んでいるんだって。もう、この世で話をすることも何か食べることもできない。あなたが早く、死んだお母さんの所に行きたいと思うなら、もう、頑張らなくていいよ。逝ってしまいなさい。ただ、アメリカから今、一人あなたに会いに駆けつけてる娘がいるから、彼女が帰るまでは頑張って、彼女のために。」と義母に聞こえないように言った。

父は妹の言うとおり、アメリカから戻ってくる義妹を待って、そして意地でそのあと数日頑張って、いきなりすぅっとあらゆる数値をゼロにしてあの世とやらに出かけていってしまった。





アタシはドライな性格、合理主義で売ってきた。
だから、みんなと一緒に怪談なんかに興じるけれど、霊魂の存在も幽霊も爪の先ほども信じてない。




だけど、だけど、あの日、アタシと三女ちゅんちゅんは見たのだ。
父の死後、病院の廊下の窓の外、人が通るようにはできていない坪庭を横切って歩いていく父の姿を。

その時、アタシとちゅんちゅんは2人吸い込まれるようにいきなり立ち上がって窓の方を見た。
どうして、そっちを2人同時に見たのかはどんなに考えてもわからない。
ただ、晩年は歩くことさえできなかった父がICUの黄色い患者用の服を着てすぅっと軽やかに右から左に移動していったのだけは、はっきりと覚えてる。
ちゅんちゅんとアタシは、即座に窓の外を指さして「今、今、ほら!」と訳のわからない言葉を発したんだけど、誰にも理解してもらえなかった。みんな、妹に輪をかけたように合理主義だったのである。




あのことでわかったことは、
なんだかわからないし、何がそうさせるのかはわからないけど、集団催眠みたいなものは起こりうるし、もしかしたら、霊魂ってあるのかもしれない、ということ。


それと、どんなに着道楽でもおしゃれでも、あの世に行くときはきっとおしゃれとは程遠いもの着てっちゃうんだなってこと。
父は無類の着道楽でおしゃれなひとだった。


ちなみに、義母の希望で父はすごいおしゃれな着物を着せて納棺したんだけど、黄色い患者服着て歩いてった父のこと思うとなんとももったいない気がアタシはした。




アタシはドライな性格、合理主義で売ってきた。
だから、みんなと一緒に怪談なんかに興じるけれど、霊魂の存在も幽霊も爪の先ほども信じてない。

ただ、子どもだったから、なんだかわからないままの不思議なできごとには何回か遭遇していて、実際、今でもその出来事にはアタシなりの説明はついてないんだけど。



説明のつかない不思議なことがあの日以来、ひとつ増えたんだよね。




父は文学青年だった。活字中毒でもあった。若い頃には、戯曲を書いたりもしてたらしい。
祖父から預かった大学の学費を文学全集に替えてしまって困ったんだ、と旧かな遣いの日本文学全集を前に大威張りする人でもあった。

そんなに書物とともにあった父も、晩年には文字を追う気力がなくなってしまい、本読みの晩年の悲しさを見せつけてくれたりもした。

「一生に読める本の予定冊数に晩年の数年間を予定してはいけない。」父が身を持って教えてくれたひとつだ。





桜の咲くころになると、父はいつも
西行法師の「願はくは花の下にて春死なむ、その如月の望月のころ」と必ず言っていた。


桜満開からはずれてしまったけれど、その1週間のタイムラグはアタシたちに心の準備をさせるための優しい配慮だとアタシたちは理解している。

父にとっては本望だったと思う。たぶん。



ふんふん、と受け流していたアタシだけど、アタシハ ハルガ ダイキライ。
 
                    サクラノ ハナガ ダイキライ。